哈囉〜(Hā luó=台湾人がよく使うフランクな挨拶言葉。英語のHelloの意)春風です。
前の記事で苗栗県三義郷に降る5月の雪について触れましたが
本記事はそれに引き続き、客家の街・新竹県内湾を紹介します。
交通
台湾鉄道在来線台北駅から南下する電車に乗りましょう。
自強號(Zìqiáng hào=特急)に乗れば1時間ちょいで新竹駅に到着しますので
新竹駅で一旦下車し、ローカル線の内湾線に乗り換えて
新竹駅からこちらも1時間ほど、内湾駅に到着です。
内湾駅
ローカル線で電車の本数が少ないので、帰りの電車の時間に注意しましょう。
1951年に作られた駅舎です。
日本の駅舎の雰囲気とはまた違う情緒にあふれています。
内湾老街
駅前のから伸びるメインストリート・内湾老街を歩いてみます。
あちらこちらから、客家族独特の方言である客家語が聞こえてきます。
先述の通り、内湾は客家族の街です。
元々客家族のルーツは、大陸広東省北東部にあります。
清朝末期の積極移民政策により、福建省の閩南族と時を同じくして台湾移住し
その大半が台湾北西部に居住し、現在のコミュニティを形成しています。
客家料理
お腹がすいたので、早速客家料理をいただきます。
店の菜單(Càidān=メニュー)を見ても、どんな料理か分からなかったので
愛想のいい店員小姐に声をかけて、オススメを2つ選んでもらいました。
客家粄條(Kèjiā bǎn tiáo=ハッカ風フォーのタンメン)
うすくて表面積の広いフォーににんにく風味のきいた塩辛いスープが絡む!
客家湯圓(Kèjiā tāngyuán=ハッカ風お雑煮)
モチモチ食感のお餅と香菜(Xiāngcài=パクチー)の組み合わせが抜群!
内湾吊橋
お腹を満たし、カロリーを消費するために内湾散策へ。
続いて内湾老街と同じく多くの人が訪れる観光スポット・内湾吊橋。
高さはそれほど高くありませんが、吊り橋が結構揺れます。
現地民から聞いた話ですが、同じ新竹縣内に
日本統治時代に作られた『ヨロシクー橋』という古い橋があるとか。
日本統治時代初期、日本人が橋を建設し
川の先の丘陵地に住んでいた客家人に対し
「宜しく、宜しく」
と言って挨拶したのが名前の由来との由、後日探しに散策に行く予定です。
野山にまじりて
復路、橋の中央から見た山河。
私は戦前の日本による台湾植民統治を肯定するつもりはありませんが
この険しい丘陵地に分け入った日本の先人達の苦労を思うと頭が下がります。
1895年に領台開始した日本は、漢民族や原住民の抗日ゲリラ鎮圧に手を焼き
最後まで抵抗した原住民を撫順し全島を掌握するまで約10年かかりました。
この間、日本軍が鎮圧または抵抗勢力が降伏した集落に調査員を随時派遣し
一軒一軒戸口調査を行い、人口分布図を作成。
それに基づいて、道路や鉄道・水道・電気などのインフラ設備計画を推し進め
平地には国語伝習所(後の公学校、その後の国民学校)と警察署を建設し
日本語教育を実施して治安維持を確保しました。
学校や警察署の建設が難しい山地には派出所を設置し現地の治安を守りつつ
日本人警察官が原住民の子どもたちに日本語教育を行ないました。
内湾派出所
日本統治時代に建設された派出所が、現在でも内湾派出所として使われています。
日本統治時代赴任した警察官は、派出所の脇で作物を育て住民に分け与えたり
現地住民の野良仕事を手伝って交流を深めた者もいました。
そんな警察官を地域住民も慕い、世話になっている感謝の気持ちとして
豊作だった農作物などの贈り物をすると、快く受け取ったものの
金銭だけは絶対に受け取らなかったといいます。
まさに質実剛健、清廉潔白。
政治資金パーティーの裏金にまみれ脱税を貪る政治家は
偉大な大和心を持った先人たちの爪の垢を煎じて飲んでほしいものです。
あとがき
客家料理はニンニクフライとパクチーを多用するので
食欲をそそるかぐわしい香りを醸し出し容赦なくレストランへ誘われます。
にんにくとパクチー風味と塩味のきいた炒め物はまさにビール泥棒。
お酒が好きな人の舌に間違いなく合いますので、是非ご賞味あれ!
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