哈囉〜(Hā luó=台湾人がよく使うフランクな挨拶言葉。英語のHelloの意)春風です。
ここまで台南にある名門成功大学と孔子廟を紹介しましたが
続いてグルメだけでなく歴史も深い台南の旧跡を紹介します。
本記事は鄭成功が祀られている延平郡王祠について。
台南観光の候補地の1つとして参考になれば嬉しいです。
先に結論
数奇な運命を辿りここに眠る鄭成功は、時の政権によって
「外国勢力から台湾を解放した民族の英雄」や
「台湾を拠点に大陸反攻を掲げた」と讃えられ
緩やかに時を刻む台南で
ひっそりとですが厳かに延平郡王祠に祀られています。
鄭成功
以下、鄭成功についての説明で少しだけ行を割いておきます。
鄭成功は、福建省を中心とした海賊集団の頭領鄭芝龍と
長崎平戸の貿易商の娘・田川マツとの間に1624年に生まれる。
成長するにつれてすぐに頭角を現し、父と共に中国大陸南部で
他の海賊勢力を征伐してその利権を獲得して勢力を拡大し
当時台湾南部を支配していたオランダと貿易も進め巨万の富を築く。
↑2013年8月金門にて筆者撮影
時の大陸では、明王朝が中国北東部に起こった清朝の軍に攻め込まれ
滅亡しようとしていた。鄭氏親子は残った明王朝の勢力に担がれて
本拠地福建省で明朝復興を支持し清朝への抵抗を続けていたが
父・鄭芝龍が子・鄭成功の建議を聞かず清朝に投降、後に処刑され
清朝軍による福建侵攻で母・田川マツは清朝兵に凌辱され自害する。
↑延平郡王祠内、田川マツを祀った祭壇
「反清復明」を唱え清朝への反抗を続け各地を転戦していた鄭成功は
両親の訃報を聞いて大いに憤り嘆き悲しみ、清朝への復讐を心に誓う。
父のかつての勢力を受け継ぎ、体制立て直しと戦力増強を目的とし
当時オランダが支配していた台南へ1660年に移り
オランダ人との激しい戦いの末、1661年オランダ人を台湾島より駆逐。
↑オランダ人の投降を受ける鄭成功、2012年12月赤崁楼にて筆者撮影
台南を大陸反攻の本拠地としたが、1662年志半ばで病死、享年37。
その後、台南に残った鄭氏勢力は清朝による南伐によって征伐され
以降台湾は1895年に日本が統治するまで、積極的支配ではないながらも
台湾島西側の平地を中心に約230年間清朝の統治を受ける。
延平郡王祠
延平郡王祠(Yánpíng jùn wáng cí)の入口付近には
漢民族に愛される龍のオブジェが置かれています。
池の緑色が気になる…鯉が何匹が腹を上にして浮いていました。
敷地内に入ると赤を基調とした一座の廟があります。
その廟の中に鄭成功の魂が祀られています。
合掌礼拝。
作家の司馬遼太郎は「街道をゆく 台湾紀行」で
鄭成功による台湾統治を以下のように評しています。
その(※筆者注、鄭成功の)生涯は、あくまでも戦闘者としてのもので
文明の前進に益したというようなものではない。
しかし、はるかなのちの世に、かれの予期しなかった政治的効果をもたらした。
ひとつは、かれがつくった台湾における漢民族政権が
ともすれば無主の地とみられがちなこの島の所属について
後世、一証拠を提供することになった。
いまひとつは、とくに十九世紀以後
わきおこった中国の民族主義的気分にとっての
一つの炬火になったことである。
太平洋戦争後、共産党との内戦に敗れ台湾に遷移した蔣介石と国民党政府は
自分達と同じく大陸反攻を掲げ台湾を解放した鄭成功を民族の英雄と讃え
台南駅前や金門島に鄭成功の銅像を複数建てました。
鄭成功ランタンナイト
↑写真はイメージです。2017年1月台南市内にて筆者撮影
今年2024年はその民族英雄・鄭成功生誕400年。これを記念し
長崎県平戸市で「鄭成功ランタンナイト第2弾」が開催されています。
あとがき
延平郡王祠での観光で暑さにバテた時は
対面にある順天冰棒(Shùn tiān bīngbàng)という
台湾の昔懐かしいアイスを売るお店があるので休憩ついでに寄ってみてください。
では、881〜(Bābāyī、台湾でポケベルが使われていた当時バイバイの意)
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