哈囉〜(Hā luó=台湾人がよく使うフランクな挨拶言葉。英語のHelloの意)春風です。
グルメと歴史の街・台南の観光地を紹介しています。
本記事ではオランダによる台南統治時代に築城された
赤崁樓(Chì kàn lóu=旧プロビンティア城)を紹介します。
先に結論
海禁の帝国、明との貿易拠点として
17世紀オランダ人によって建立されたプロビンティア城。
その後オランダ人は鄭成功により駆逐され赤崁楼と名を変え
レンガ造りに中華的装飾が加わり独特の雰囲気を醸し出しています。
プロビンティア城
オランダの国土面積は九州ほどの広さですが、オランダを揶揄した小話で
「神は世界を造り給うた。
しかしオランダだけはオランダ人が造った」
と言うほど、国土の4分の1以上は海を拓いて干拓で得たものです。
16世紀末宗主国スペインとの激しい戦争の末に独立したオランダは
国内に複数あった貿易会社を統合し「東インド会社」を成立させると
17世紀の大航海時代、貿易で世界各地に拠点を構え莫大な利益を得ました。
東インド会社は、アジアの本拠地バタビア(インドネシアのジャカルタ)と
当時すでに貿易を開始していた日本との間に位置する台湾に拠点を構え
中国大陸との貿易を実現するため、台湾島近郊にある澎湖諸島の占拠を試みるも
海禁の明朝から派兵された軍隊の反撃に遭い失敗。
明朝と交渉した末に、当時無主の地だった台湾の南部台南に分け入り
原住民の抵抗を武力で鎮圧し、拠点プロビンティア城を築城しました。
その後、オランダは労働力確保のために
台湾島の対岸福建省の住民らに台湾島への渡航を呼びかけ
にわかに人口が増えて統治が軌道に乗りかかった1661年に
「反清復明」をスローガンに台湾を拠点とすべく入境した鄭成功らに駆逐され
オランダ人勢力はプロビンティア城を明け渡し台湾の地を去りました。
赤崁楼
鄭氏政権による統治が始まり
プロビンティア城はレンガ造りの外観に中華風の装飾が加えられ
その名は赤崁樓(Chì kàn lóu)と改められました。
当時この辺りにあった原住民の村が「チャカム」と呼ばれていて
それに福建省方言の閩南語で漢字を充てたと言われています。
入り口から入ると前庭が広がり、付近住民の憩いの場となっています。
通路そばに堀があり、鮮やかな色の鯉が映えます。
鄭氏政権はこの赤崁楼を行政府の拠点とし武器庫としても使用していたそうです。
その後日本による統治が始まり、時代と共に経年劣化で少しずつ朽ちていく赤崁楼を
献身的に修復した日本統治時代最後の台南市長の羽鳥又男の像が置かれています。
阿川冬瓜茶と度小月
季節にもよりますが、熱帯気候に属する台南は毎年とにかく暑い。
赤崁楼観光の際は、建物対面にあるドリンクスタンド
阿川冬瓜茶(Āchuān dōngguā chá)を飲んで
一抹の涼を取ったうえで赤崁楼を見学し
帰りに台南の名産ヌードル擔仔麵(Dān zǐ miàn)で有名な
度小月(Dù xiǎo yuè)で夕飯を食べて帰るのをお勧めします。
あとがき
夜はご覧の通り城跡全体がライトアップされます。
夕方頃に見学に行き、帰りにライトアップを見て帰る行程がベストでしょう。
参考になれば幸いです。
では、881〜(Bābāyī、台湾でポケベルが使われていた当時バイバイの意)
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