蔣介石と228事件

台湾での日本ネタ

台湾の政治史を語る上で

良くも悪くもこの人物を抜きに語ることはできません。

蔣介石

蔣中正しょうちゅうせいあざな介石かいせき

1887年浙江省生。軍人、政治家、中華民国初代総統

  • 抗日戦争の英雄
  • 終戦直後「以徳報怨」の寛大な心で日本人への接遇を呼びかけた

とされる一方で

  • 様々な人権を侵害した独裁者
  • 「中華民国こそ正統な中国」にこだわるあまり台湾の世界的地位をおとしめた

と負の側面もあり、歴史的な評価は別れる。

国共合作と国共内戦

話は日中戦争当時の中国大陸。

蔣介石しょうかいせき率いる中国国民党は、毛沢東もうたくとう率いる中国共産党と勢力争い(=国共内戦)

をしていた。1937年そこに外敵・日本軍が侵攻してきたため

この2つの勢力は抗日民族統一戦線を組織し共闘(=第二次国共合作)したが

1945年日本の敗戦により大東亜戦争が終わると、国共内戦を再開。

内戦で南へ敗走した蔣介石は、かつて日本が統治していた台湾に着目し

共産党を討たんがため、1949年台湾島へ逃れ大陸反攻の拠点とした。

大陸では、毛沢東により新しい国家・中華人民共和国が建国された。

祖国復帰『光復』

一方、日本の植民地支配から解放され中華民国の国民となった台湾人は

祖国復帰を喜び国民党軍の来台を歓迎するために歓呼して基隆港に集結。

かつての日本軍のような一糸乱れぬ行軍を期待していた台湾人は

台湾島へ上陸を始めた国民党軍を見て唖然とする。

異臭を放つ汚れた軍服、軍帽は無く乱れきった髪、やかんを下げた銃剣

みすぼらしい格好で痰や唾を吐きまくる国民党の軍人を目の当たりにし

台湾人は中華民国に接収されることへの不安を禁じ得なかった。

その後、その不安はすぐに現実のものとなってしまう。

民度が低く軍規の乱れた中国国民党の軍人・官吏が政府要職を支配すると

汚職・略奪を繰り返し、強盗・強姦・殺人が多発し治安が急激に悪化。

紙幣の乱発によりハイパーインフレが起こり物価が急激に上昇し

政治経済ともに台湾島は大混乱に陥った。

そして事件が起こる。

228事件

1947年2月27日大稻埕(=現在の迪化街付近)で闇タバコを売って

生計を立てる台湾人女性を国民党憲兵が殴打し、売上金とタバコを没収。

遠巻きに見ていた台湾民衆がその不条理な取り締まりに不満を訴えると

国民党憲兵がこれに対し発砲、一人の台湾人青年が亡くなる。

これをきっかけに鬱積していた台湾人の怒りが爆発し暴動へ発展。

台湾民衆はラジオ放送局を占拠し、台湾全島に決起が呼びかけられ

政府機関が襲撃されて国民党政府の官吏が暴行を受け

街では外省人(=戦後国民党軍や官吏と共に渡台した中国人)狩りが行われた。

世に言う228事件である。

戒厳令と白色テロ

228事件後、台湾の知識人を中心に事件処理委員会が発足し

  • 国民党軍による腐敗政治の一掃
  • 台湾人の政治参加と自治機構の設立

を国民党政府に要求。

これに対し、国民党政府は対話するフリをして時間をかせぎ

蔣介石の命を受けた国民党軍が出動し、武力でこれを鎮圧・封殺する。

↑写真はイメージ、2013年8月金門にて筆者撮影

その後台湾全島に戒厳令が敷かれ、言論の自由や集会の自由は無くなり

蔣介石・国民党独裁政権を批判するような反体制的な考えや

普遍的な価値観である自由・平等・民主主義を唱えようものなら

翌明け方には秘密警察によって逮捕され、生きて帰ることはなかった。

このようにして、大勢の無辜の市民が投獄・拷問・処刑された。

また密告が奨励され、反国家や共産主義者と疑わしき人物が傍らにいる場合

通報しなかった者も同罪として検挙の対象となる相互不信の暗黒の時代が

1987年に戒厳令が解かれるまで約40年の長きに渡って国民党独裁政権下で続いた。

一連の白色テロによる犠牲者は、行政院の推計で1.8万人~2.8万人とされているが

現在に至ってもその正確な人数は明らかになっていない。

蔣介石その後

台湾で国民党独裁政権を率いた蔣介石は

師である孫文と自身を神聖視することを台湾人民に強制した。

「孫文先生」や「蔣介石先生」という名前が学校で唱えられると

学生は条件反射のでかかとを揃えた「気をつけ」をさせられ

尊崇の対象として各要所や教育機関の校庭に自身の銅像を建てさせた。

また、戦後の大衆娯楽の1つである映画を映画館で上映する際

娯楽を享受できる幸福を人民にもたらす国家及び蔣介石を称え

映画上映の前に観客を全員立たせて中華民国国歌を斉唱させた。

この間、幾度も大陸反攻を企図するもアメリカの支持を得ることはできなかった。

1つの中国

台湾の中華民国と大陸の中華人民共和国の正統性について

1971年国際連合で唯一の合法的な中国政府として

中華人民共和国を承認するアルバニア決議が採択され

中華人民共和国が国連安保理常任理事国として認められると

これに激怒した蔣介石は「中華民国こそ正統な中国である」と

中華民国の国際連合脱退を選択。

以降、中華民国台湾は国際社会で孤立していった。

1975年死去、享年89。

中正紀念堂に眠る蔣介石の遺体は

「台湾の土には眠らない、いつか中国大陸に戻る」という本人の希望を汲んで

地面より3cm浮かせて安置してあるとの由。

あとがき

戦後ある台湾人曰く

「アメリカは日本に原爆を落としたが、台湾に蔣介石を落とした」と。

台湾旅行の際には、台北228記念館と白色恐怖景美紀念園区まで

是非足を運んでください。

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