祖父という存在

台湾の歴史

『おじいちゃんとの一番の思い出は何ですか?』

このブログを読まれている方の中には

今でもおじいちゃんがご健在の人もいるでしょうし

残念ながらすでに亡くなられた人もいるでしょう。

殊私にとっては、祖父を想うと不思議な心持ちになります。

私の父方の祖父は台湾人です。

私がこの世に生を授かった時分、祖父はすでにこの世を去っていたので

祖父との思い出はもちろん皆無で、その存在をうまくイメージできません。

本記事では、祖母が生前つけていた日記と台湾の親戚からの伝聞を参考に

昭和という時代に翻弄されながらも、逞しく生きた祖父の半生を掘り下げます。

生い立ち

日本統治時代台湾南投県のど田舎、貧しい農家に三兄弟の末っ子として生まれ

台湾人子弟向けの教育機関『公学校』にて、日本語などの近代教育を受ける。

三男は家業を継ぐことができないため、公学校卒業後は実家の農業を手伝いながら

工場勤務で手に職をつけたうえで、出稼ぎ労働者として中国東北部満州国へ渡航。

満州で終戦

現地で工場を転々とした後、満州日本海軍工作部に勤務していた頃に

同じ工作部給料係の事務員として働いていた日本人女性(祖母)と知り合い

交際開始。

1945年8月15日会社で終戦布告を聞く。

満州におけるソ連兵の略奪及び強姦から逃れるため、祖母と共に旅順・大連と転じ

すでに身重だった祖母に寄り添い、1946年1月大連港発の引き揚げ船に乗って来日し結婚。

ほどなくして二人の間に男の子(私の父)が生まれた。

戦後

結婚後も日本国籍は取得せず、戦勝国中華民国の国籍を保持していたため

戦勝国民向けの特別配給で米、砂糖、煙草、酒などの特別待遇を享受しつつ

中国船のヤミ物資を国内で売りさばいて一儲けした頃から金で人生が狂い始め

身なりが変わり、飲む買う打つ(酒、買春、博打)を始める。

その後事業に失敗し、一文無しへ。

晩年は幸福に円満に楽しく暮らしたい一心で

ドン底の苦労の中で血の涙が出る程働いた。

子(父)の結婚を見届けた後

虫の知らせか我慢していたのか、突然精密検査をすると言い出し

検査の結果、次々とガンが発覚。

その後二年半の間に入退院を何度も繰り返し、闘病も虚しく鬼籍に入る。

享年62。

人生とは

死の前日、祖父が残した最期の言葉。

「人生とは、重き荷物を背負って遠き道を行くが如し。思い残すことはない。」

壮絶な人生をおくった祖父に、合掌礼拝。

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