台南市郊外にある観光地 その2:烏山頭ダム

台湾の歴史

哈囉〜(Hā luó=台湾人がよく使うフランクな挨拶言葉。英語のHelloの意)春風です。

戦後80年を迎える現代おいて、日本統治時代に台湾に残した功績が

現地人民から広く讃えられ毎年顕彰されている日本人がいます。

日本統治時代の台湾において東洋一の烏山頭ダムを作り上げ

かつて不毛の地だった嘉南平原を台湾有数の穀倉地帯に変えた

故八田與一技師と氏を支えた外代樹とよき夫人です。

【Podcast】八田與一の巻 日本と台湾の絆つむぐ 不毛の大地に東洋一のダム建設 音声で聴く 神田蘭の5分で恋する日本史列伝
日本統治下の台湾で土木技師だった八田與一(1886~1942年)は、不毛の大地と呼ばれていた台湾南西部の嘉南(かなん)平原に、当時では東洋一の規模である烏山頭…

現代日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが

もし台南にお立ち寄りの際は是非お参りしたい場所です。

烏山頭ダム

官田菱の実イベントを後にして再び観光バスに乗り込み

台南市郊外にある観光地 その1:官田菱角節の菱の実イベント
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15分ほどの移動の後、今日の最終目的地である烏山頭ダムに到着。

帰りのバスが夕方15時半が最終だったので駆け足での参観です。

ダム建設の背景

上述した通り、日本統治時代に八田與一技師によって建設されたダムで

当時のダムとしてはアジアで一番、世界でも三番目の大きさでした。

排水のためのトンネルがこれほどの大きさなので

ダムがとてつもなく大きいのは写真から想像がつくと思います。

当時ここにダムを建設した理由は以下の通り。

元々このあたりは嘉南平原と呼ばれ肥沃な土地が広がっていましたが

灌漑設備の不足から、官田渓の豊富な水が嘉南平原に十分に供給されず

常に干ばつの危険にさらされていました。

適量の雨が降れば作付けが可能とはいえ

台湾に多い大雨や台風の際には官田渓の水が度々氾濫し

実った作物が水害に遭うという農家泣かせの状態だったそうです。

そこで1918年台湾総督の命を受けた八田技師が嘉南平原の測量調査を開始。

奇しくも、当時日本ではシベリア出兵を見越した商人による米の買い占めにより

米価が例年の4倍に跳ね上がり民衆の暴動にまで発展した米騒動が起こった時代。

将来のコメ不足予防だけでなく台湾の独自財源確保の狙いもあったわけです。

1920年度々干ばつと水害に見舞われてきた嘉南平原に灌漑設備を整備し

水溜めを作り水害を防ぐという大規模なダム建設工事が開始されました。

八田與一記念館

まず向かったのは八田與一記念館。

日本人による台湾人差別が根強かった当時、人種を問わず別け隔てなく公平に接し

大事業を成し遂げた八田技師への敬意が込められています。

門から入ってすぐ右手に、技師と同じ石川県出身である森喜朗元総理大臣から

この地に贈られた桜の木と立派な石碑があります。

『神の国』や『無党派層は寝てろ』発言など失言が多かった森元総理ですが

2001年4月李登輝元台湾総統が日本での心臓手術を希望し

これに関するビザを発給するよう日本政府に要請しましたが

中国共産党がビザの発給をしないよう日本政府に度重なる圧力をかけてきた折

森元総理はこれに屈せず人道的見地からビザを発給しました。

李登輝前総統が心臓病治療/倉敷市の病院に1晩入院 | 四国新聞社
来日中の李登輝前台湾総統(78)は24日午後、岡山県倉敷市の倉敷中央病院(高三秀成院長)で心臓病の治療を受けた。

李登輝元総統を日本に迎え入れた心意気を鑑みるに

彼も日本では数少ない親台家の政治家の一人だったのかもしれません。

再建された旧八田邸。

ここに外代樹夫人以下八人の子どもと一緒に暮らしたそうです。

若かりし頃の八田技師。

世のため人のための奉公をするという凛々しいお顔です。

記念館の外には背丈ほどの鳥居があり

ここを訪れた観光客の想いや願いがそれぞれの絵馬に書かれています。

かなりの数の日本人観光客がここを訪れているようです。

ダム内移動はレンタサイクルがお勧め

チケット売り場のオバちゃんが言うには

この烏山頭ダムは広すぎて歩いての参観は無理とのこと。

近くのレンタサイクル屋を紹介してくれました。

建設開始から10年歳月をかけて、この烏山頭ダムは完成しました。

ダムと感慨設備のおかげで干ばつと水害に見舞われていた暗黒の土地が

見事に食料の宝庫に変わりました。

現地の農家は八田技師の事業に感謝し彼の銅像を作ったほどです。

氏がこれほどまでに台湾人に慕われているのは

鎮魂石にダム工事において事故で亡くなった方の名前を刻む際

台湾人か日本人かに関わらず亡くなった順番に名前を刻名するなど

台湾人を差別せず日本人と同等に扱ったこと

工事の危険な場所には率先して現場に入り手本になったことなど

八田技師の人格や人徳の成せる業です。

夫人と撮った最後のツーショット写真。

1942年陸軍省より八田技師に内命が下りフィリピンにおける灌漑調査のため

部下三人と大洋丸に乗船し宇品港を出発しますが

5月8日東シナ海においてアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受け大洋丸は沈没。

享年五十六。

ご遺体のないお葬式が、台北市内でしめやかに行われたとのこと。

妻の外代樹夫人は終戦直後の1945年9月

夫が建設したダムに投身自殺し八田技師の後を追ったそうです。

氏の偉業は、父から子へ、子から孫へと、世代を追って語り継がれています。

台北日本人学校の学生が、八田技師を称える作文や絵を寄贈していました。

道徳の教科書にも登場しています。

台湾の一部の小学校でも道徳の教材として使用されているとのことです。

八田夫妻の墓

最後に、八田技師の銅像が置かれ夫人と共に眠るお墓がにお参りに。

工事に行き詰まった際、このように右手を頭にあてて

ダムを見ながら思いを巡らせておられたそうです。

この銅像は、戦時中の国家総動員法による鉱物徴収を避けるため

台湾人有志がこの銅像を隠し通しその難を逃れました。

また終戦後に台湾を支配した国民党政府による日本建造物の破壊の折も

有志がこれを隠し通し1981年烏山頭ダムを望めるこの地に設置されました。

銅像の後ろには八田夫妻のお墓があります。

八田技師は、ダムを見ながら台湾の平和を祈っておられるのでしょうか。

技師の偉業と人柄を讃え、命日である5月8日は毎年慰霊祭が行われています。

銅像とお墓へお参りし、日台交流の架け橋となる気持ちを新たにしました。

あとがき

八田技師と氏が成し遂げた大偉業、そして現在でも台湾で慕われていることは

残念ながら多くの日本人が知りません。

今回このブログで知った方、もし台南に観光に行く機会があれば

是非烏山頭ダムの見学と八田夫妻のお墓のお参りに行ってください。

では、881〜(Bābāyī、台湾でポケベルが使われていた当時バイバイの意)


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