哈囉〜(Hā luó=台湾人がよく使うフランクな挨拶言葉。英語のHelloの意)春風です。
台北捷運(Táiběi jié yùn=台北モノレール)のグリーンライン
北門(Běimén)駅の構内には下の写真の様に
赤い規制線が設置されている場所があります。

2014年北門駅開通の際、駅構内にある展示を設置し
立ち寄った人に台湾の複雑な歴史を語りかけるものです。
詳細は以下より。
北門駅

台湾旅行に来る方の中には、台北市内の観光を終えて
北門駅を経由し桃園国際空港に行く方も多いと思いますが

そんな北門駅構内に特徴ある展示がなされています。
19世紀清朝統治下で建設された台北城北門の跡の一部です。

駅構内に掲げられた掲示の文章を見てみると
城壁以外にも当時城内民衆の日用品や

水道管なども発掘されたそうです。

でも、そもそも北門とは何でしょうか。
北門

清朝時代の台北は、台湾北部でとれる樟脳や檜の集散地として
万華及び大稲埕を中心に繁栄していました。
清朝政府は中国大陸にある西安など他の大都市と同じ様に
外界の無頼漢や暴徒から街の治安を守るため
政府当局のある台北城を中心に高い壁を建設して台北の街を囲い

当時ヒト・モノの出入りを東西南北の門で制限していました。
台北には
- 東門(Dōngmén)
- 小南門(Xiǎo nán mén)
- 西門(Xīmén)
- 北門(běimén)
といった地名及び駅名があるのはその名残です。
19世紀末の台北
(以下、参考写真と共にご覧ください)

日清戦争の結果1895年に台湾が日本に割譲されることが決まると
この決定に反対する清朝の在台役人唐景崧や劉永福らが中心となり
『台湾民主国』の建国を宣言、日本に対し宣戦布告した。

しかしながら、日本軍の武力に怖気づいた唐景崧、劉永福らは
自身の家族と共に船に乗って密かに台湾島対岸のアモイへ逃亡。
大将の敵前逃亡に混乱した民主国の残党兵は、台北城内の民衆に対し
略奪、強盗、陵辱などの狼藉を働き、台北は阿鼻叫喚の世界となる。
民衆は自ら台北城の門を開け、日本軍に治安の回復を要請すると
城内に進軍した日本軍は匪徒の暴動をすぐさま鎮圧し

治安は瞬く間に回復。拍手喝采を以って民衆より歓迎を受けた。
瘴癘の地

正式に台湾統治を開始した日本政府は台北に台湾総督府を置き
不潔を極めた劣悪な水質を改善するため上下水道を整備し
腸チフスや赤痢などの伝染病の予防に寄与。
清朝統治下にあって伝染病が蔓延する瘴癘の地と呼ばれた台湾は
清潔で安全な場所となり、この時に整備された水道管の一部は
21世紀になった現在でも使われています。

日本による台湾統治当初は
日本の国家予算の4分の1を使って台湾開発及び近代化がなされ
インフラが整備され、産業が興り、樟脳や塩などの専売制度が導入され
1905年には内地の補助金無しで財政運営できるようになりました。
戦後

大東亜戦争後の台湾は、国民政府による白色テロを経験するも

日本統治時代に整備されたインフラを基礎にして
1970年代の十大建設に代表される『台湾の奇跡』と呼ばれた
目覚ましい経済発展を成し遂げました。

1990年代に入り民主化されて以降

多くの現代台湾人は日本による植民地統治の負の側面だけでなく
正の側面にも目を向け歴史をフェアに評価しています。
あとがき

有個熱情的地方名字叫台灣
情熱のある場所、名を台湾と云う
年末年始の休みを利用して、家族で台湾旅行はいかがでしょうか?
台湾はいつでもあなたの来台を待っています。
では、881〜(Bābāyī、台湾でポケベルが使われていた当時バイバイの意)






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