哈囉〜(Hā luó=台湾人がよく使うフランクな挨拶言葉。英語のHelloの意)春風です。
戦後間もない頃から2000年代前半までの台湾には
所謂省籍問題と呼ばれる
228事件に起因した民族の対立による差別が存在しました。
本記事では、この省籍問題に着目したうえで
太平洋戦争後に国民党と共に中国大陸から台湾に渡来した者(外省人)が
独自のコミュニティ(眷村)を形成しどのような生活をしていたのか
また、私の親戚を例に省籍問題が現代如何に解決されているかを紹介します。
先に結論
戦後間もなく国民党と共に大陸から台湾に渡来した者(外省人)の多くは
人口構成で少数派となり、貧しい暮らしを余儀なくされたため
台湾各地で独自の外省人コミュニティ「眷村」(=Juàn cūn)を形成し
外省人同士で共助するしか生き抜く方法はありませんでした。
現在、彼らが生活していた「眷村」は政府によって観光地化され
戦争に翻弄された当時の外省人の暮らしぶりが分かる場所として
省籍問題を克服した台湾の寛容さを物語っています。
省籍問題とは
四四南村を語る前に、先に省籍問題を簡単に解説しておきます。
省籍問題とは、自身あるいは自身の親または祖父母が
太平洋戦争前から台湾に居住していた台湾土着の出身者(本省人)か
或いは
太平洋戦争後に国民党と共に中国大陸から台湾に渡来した者(外省人)か
といった、当人の出自によって
交際者の家族や親戚から結婚に反対されたり
(※特に本省人の親は子が外省人と交際・結婚することに反対した例が多い)
特定企業への就職に有利 or 不利になったりするなど
228事件を起因とした本省人と外省人の間の憎悪による対立から
様々な場面で発生した差別と軋轢を指します。
本省人は台湾土着の台湾語を話す人が多い
本省人の多くは、祖父母・両親が話す福建語系の方言である台湾語
(閩南話とも言う)を聞いて育っているためこれを解するのに対し
外省人の多くは、祖父母・両親共に中国大陸出身者なので
祖父母・両親出身地の方言(浙江省の方言等)か、中国語しか話せません。
ちなみに台南出身の私の妻エイミーは本省人で台湾語話者で
家族や親族と話す時は中国語ではなく台湾語で話します。
中国語と台湾語は、英語とフランス語ほど違いますので
私は聞いてもさっぱり分かりません。
ティアーボー(台湾語で分からんという意味)。
四四南村
前置きが長くなりました。
では早速四四南村を見ていきましょう。
MRT台北101駅から歩いて10分弱で到着します。
中国映画で見るような、田舎の古い町並みがそのまま残されています。
この四四南村は、太平洋戦争終結後蔣介石と共に台湾に渡って来た
国民党の政治家や軍人とその家族が生活の拠点にしていた場所です。
こうした人々が独自に形成したコミュニティを眷村と言い
台湾の各地に存在しています。四四南村もその1つ。
戦後間もない頃の混乱期に
外省人が土地の所有権を無視してここに居を構え
長らくその子孫による不法居住が続いていましたが
台北市政府による粘り強い立ち退き交渉で現在違法状態は解消。
当時眷村に住んでいた人々の暮らしぶりを知る場所として観光地化され
懐かしいレトロな雰囲気に誘われ、多くの人が見物に来ます。
台湾史を多少知る人の中には、戦後外省人が本省人の仕事を奪って
皆裕福な生活を送っていたと勘違いしている人がいますが
贅沢ができたのはごく一部の軍上層部とその家族だけ。
台湾の人口構成で少数派になった外省人の多くはここ眷村で
貧しい生活を送り共に助け合って生き抜くより仕方なかったとの由。
当時使われた生活雑貨が資料館に展示され、暮らしぶりが再現されています。
ある外省人の軌跡。
国民党軍人のコミュニティだった四四南村は
武器の調達や製造などもミッションの一つだったそうです。
国民党政府が当時台湾で発行した古いお金・台湾ドルです。
中華民国の建国の父・孫文の肖像画が描かれています。
戦後国民党政府は台湾で紙幣を乱発。
ハイパーインフレが起こって物価が急騰し
台湾経済が大混乱に陥ったため、物価の安定を図り
中央政府はデノミネーション(通貨切り下げ)を実施。
新たな通貨新台湾ドル(=新台幣Xīn táibì)を発行しました。
このNTD(New Taiwan Dollar)は現在台湾で使われている通貨です。
漢化教育
太平洋戦争後、台湾を独裁支配した国民党政府は
本省人を「日本の教育によって奴隷化された下等国民」と見なし
長年日中戦争を戦った敵国日本を目の敵にして
歴史教科書で台湾人子息に対し徹底的に反日教育を施し
教育や法律・制度により本省人を徹底的に漢化しようとしました。
実社会では厳格な戒厳令が布告され
言論の自由は認められず、政府や政策批判などはもちろん禁止
学校などの公共の場における台湾語の使用も全面的に禁止
謀反の恐れありと、本省人が3人以上集まって話すのも禁止。
国号はもちろん「中華民国」、台湾を指して云う場合は「中華民国台湾省」。
「台湾国」なんて口に出そうものなら処罰の対象となりました。
戒厳令下の台湾の様子は台中に住む親戚から聞いたもので
実際はもっと過酷なものだったと推察されます。
台湾が自由を獲得し名実ともに民主化を果たすのは
国のリーダーたる総統を直接選挙で選出した1996年まで待たねばなりません。
民族融和と台湾アイデンティティ
かつて本省人として初めて台湾総統を務めた故李登輝は生前
作家の司馬遼太郎との対談で
「外省人のひとたちも、同じ漢民族には違いない。
いわば台湾に早く来たか遅く来たか、それだけの話です。
一緒にやればいい。台湾人も拒絶する必要はないんです。」
と語っていました。
台湾人全員が持つIDカードには、自身が本省人か外省人かという省籍が
以前は必ず記載されていましたが、差別を誘発する恐れがあるとして
台湾民主化後の2000年代前半から記載がなくなりました。
その後、本省人と外省人の交際・婚姻が普遍化し
昨今、省籍に関わらず自身のアイデンティティを
「中(華民)国人」ではなく「台湾人」と定義する人が増加する
所謂「台湾化」が進む趨勢の中で省籍問題は解消され現在に至ります。
台湾人の親戚夫婦の場合
一例として、私の親戚のケースを紹介します。
台中に住む私の台湾人の親戚カーシンは本省人の家庭に生まれた女性で
高校の同級生だった外省人の男性と在学時から交際をスタート。
交際当初カーシンは祖父母及び両親から
相手が外省人であることを理由に交際について大反対されたため
別れたフリをして裏でこっそり交際を継続して愛を育み
13年に及ぶ長い交際の末に祖父母・両親に結婚を認めてもらい結婚。
後に一児を授かり現在も仲睦まじく幸せに暮らしています。
あとがき
小生は人から台湾人の国民性を問われれば
「差不多(Chābùduō)」と「寬容(Kuānróng)」と答えるようにしています。
「差不多」は良く言えば柔軟、悪く言えばテキトー。
「寬容」は日本語の寛容と同義で
心が寛大でよく人を受けいれること。過失をとがめだてせず人を許すこと。
正に、228事件と省籍問題という恩讐を越えた台湾人の寛容さよ。
では、881〜(Bābāyī、台湾でポケベルが使われていた当時バイバイの意)
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